3月

3/7(日)
土曜は恒例の理科大会
今年は6人
札幌の人が偶然出張(常駐?)で宇都宮にきているので
無理矢理新宿にきてもらって
食事はカプリチョーザ
なんか、これも恒例らしいが、気にしない。

新宿だとちと混んでるね
そのあとカラオケなんかを

メンバーによって話す内容とか視点が変わるのもいいことでしょう

日曜は昼中はうたたねモードだったが
そういうのは結果的に体によくないと思い
夜は友人を誘い五反田で夕食
中野に用できていた友達に送ってもらい、合流
あまり飲まなかったが、体は動かしたほうが吉

(今日のそして)

懐かしさを今後にいかしていく

3/14(日)
火曜の夜から木曜の朝にかけて
急遽、父の容態を確認するため松山に帰っていました

火曜の夜に飛行機で松山入り。
弟に迎えにきてもらいそのまま病院へ
そのときの状態は、表現しずらい状況でありました
#病気が病気ですので

私が戻ってきたことはわかっていると思うが
火曜・水曜とも会話はできず
その状態を確認し、東京に戻ってきた形になりました

そのあと、弟からの連絡によると、
話も出来るように回復しているとのことで
少し安心はしているのですが、適時松山に帰ろうと思っています
来週末も帰るつもりです

父に心配かけないで、まず、生きていく
そして、父が病に勝つことを信じつづける
まずこれをやっていこうと考えています

土曜から日曜の昼にかけては
友人が4月から長野は飯田市に帰るので送別会を行う
八王子の友人宅でバーベキューをやったのであった

日曜はそのあと家に帰り、原宿ルイードにて
ヴォイスカマンベールのライブを見に行ったのであった

久しぶりにおもちゃ(ゲームボーイアドバンスSP)を買ってみました

(今日の父へ)

何かを言い訳にしたりしないで努力しつづける

あなたの背中を見て教えてもらったことの一つです
病気に負けないで欲しい

3/21(日)
金曜の朝5:30弟から電話がかかる
闘病中の父が亡くなったとのこと
すこしづつ回復していたらしく環境がいい病院に移り
土日に見舞いに行く予定にしていた矢先だった

すぐさま地元は松山へ
始発の飛行機に乗れたので10時前に父の元へ
母を含め親戚がいる病室で父は息をひきとっていた
母から死ぬ直前のことは聞かされた

そしてそのまま通夜へ
息子である私に隠していたのと同様に
会社&友人関係にも隠していたので
訪れる人訪れる人「信じられない《「早すぎる《と

自分も頭では判っているのだか体か認めようとしない
いろいろなことを考えては泣き思い出しては泣きを繰り返していた
母も弟も親族も同じだったと思う

土曜はそのまま斎場にてすごし
日曜の午前中にはには遠方(仙台・東京・吊古屋)の親戚も集合

そして告別式
自分は親族代表(喪主は母)だったので確認できてなかったのだが
突然にもかかわらず250人ほどの方にきていただいたらしい
こんな形で父の偉大さを確認することになってしまった
親族代表の挨拶父の信条

そして霊柩車に乗る
火葬場にいったときに
「あれ お父さんは?《と上覚にも思ってしまった
おかしな話だ

そして点火
すると母は泣き崩れた
苦楽を共にし父が老後にやろうとしていたことを知っていたから
もうもどってこないこと半ば強制的に突き付けられたからか
今まで我慢していたからなのか

そのまま初七日まで済ませた

去年祖母をなくしこんなにすぐに父を亡くすとは思ってもいなかった
無理をし続けていたから
後半の人生はもっとゆっくり生きて欲しかったのに
ここぞという時に話をきいて欲しかったのに
もうかなわない

でも元気な頃を知っているから心にあるから
あとは皆の心に生き続けることを願う
病気に勝つと思っていたのに
こればっかりは、精神的に強い父でもダメでした

(今日の父へ)

いろいろありがとう

あなたに負けない人になります

3/28(日)
父の死のショックはあまりにもおおきかった
平日は何とか乗り切り週末は松山へ
実家の状況を確認することと疲れをとるために
基本的に寝てすごす

まだまだ父への別れの挨拶に来る人はあとを絶たない

10年以上別れて暮らしていたから寂しいという気持ちは薄いが
生きてもっといろいろなことを父はやろうと思ってたのではないかと
考えると泣いてしまう
それはわかった
母や弟はまた違った想いだろう

四月末が四十九日

(今日のこんなふうに)

少しずつ少しずつ

かみ締めて生きていく

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